教えのやさしい解説

大白法 705号
 
受持即観心(じゅじそくかんじん)
 「受持」とは、正法(しょうぼう)を受け持つことをいい、「観心」とは、教相(理論・教え)に対する言葉で、教相(きょうそう)をもとに実践修行し、悟りを得ることをいいます。
 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
 「釈尊の因行果徳(いんぎょう かとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足(ぐそく)す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書 六五三n)
と、釈尊が成仏するために積んだ因行と果徳は、すべて妙法五字に納まっているのであり、これを受持信行する衆生は、その広大無辺(こうだい むへん)なる成仏の功徳を直ちに享受(きょうじゅ)することができると説かれています。
 すなわち「受持即観心」とは、正法である三大秘法の御本尊を強盛に信じて、南無妙法蓮華経の題目を唱えることであり、それが末法の観心修行であることをいいます。

 受持について
 法華経の『法師品(ほっしほん)第十』には、
 「受持、読、誦、解説、書写」(法華経 三二〇n)
という五つの修行法が説かれています。これを「五種法師」または「五種の妙行」といいます。
 この中の受持について、第二十六世日寛(にちかん)上人は『観心本尊抄文段(もんだん)』に、
 「受持に二義有り。一には総体(そうたい)の受持、二には別体(べったい)の受持なり。総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。是れ則ち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。(中略)二には別体の受持とは、即ち五種の妙行の中の第一の受持是れなり」(御書文段 二二七n)
と、受持の一行に五種の妙行すべてを含む「総体の受持」と、他の四種行とは隔離した受持の一行のみを指す「別体の受持」の二義があることを御教示されています。
 大聖人は『日女御前(にちにょ ごぜん)御返事』に、
 「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」
 (御書一三八九n)
と仰せられ、妙法受持の一行に五種の妙行の全体が含まれることを示し、末法における修行が「総体の受持」であることを明示されています。

 観心について
 像法(ぞうぼう)時代の導師である天台大師が説いた観心の法門の意を取って、大聖人は『観心本尊抄』の中で、
 「観心とは我が己心(こしん)を観じて十法界を見る」(同 六四六n)
と御教示されています。すなわち、天台大師は十界三千の諸法(しょほう)が一念の心に具足するとして心を不可思議境となし、自己の心を観じて十界互異・一念三千の理を悟る観法修行を明かしました。
 しかし、天台の説いた観心は、像法の衆生に対する修行法であり、末法の衆生のための観心とはなりません。末法の観心について、大聖人は『御義口伝』に、
 「此の妙法等の五字を末法白法隠没(びゃくほう おんもつ)の時、上行(じょうぎょう)菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親(まのあた)り之在り」(同 一七九五n)
と仰せられ、上行菩薩が釈尊より結要(けっちょう)付嘱された久遠下種の妙法蓮華経の五字を受持信行する一行が、末法における成仏のための観心であることを御教示です。
 故に、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「末法の我等衆生の観心は、通途(つうず)の観心の行相に同じからず。謂わく、但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、是れを文底事行(もんてい じぎょう)の一念三千の観心と名づくるなり」(御書文段 一九八n)
また同抄に、
 「『我が己心を観ず』とは、即ち本尊を信ずる義なり。『十法界を見る』とは、即ち妙法を唱うる義なり。謂わく、但本尊を信じて妙法を唱うれば、則ち本尊の十法界全く是れ我が己心の十法界なるが故なり」(同 二一四n)
と説かれています。
 すなわち、日蓮大聖人は末法の本末有善(ほんみ うぜん)の衆生の成仏のために、事の一念三千の南無妙法蓮華経を本門の本尊として顕され、この御本尊を信じて題目を唱える受持の一行をもって、末法の観心修行とされたのです。

 観行成就
 日寛上人は、冒頭の『観心本尊抄』の御文(ごもん)について、
 「此の文の中に四種の力用を明かすなり。謂わく『我等受持』とは即ち是れ信力・行力なり。『此の五字』とは即ち是れ法力なり。『自然譲与』は豈(あに)仏力に非ずや」
(同 二二八n)
と、御本尊を受持する我ら衆生の信力・行力と、御本尊に具わる仏力・法力の四種の力用を明かされて、この四力が相侯(あいま)って初めて末法の衆生の「受持即観心」の義が成就することを御指南されています。

 結 び
 大聖人は『観心本尊抄』に、
 「一念三千を識(し)らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏(つつ)み、末代幼稚の頸に懸(か)けさしめたまふ」(御書 六六二n)
と仰せられ、また『経王(きょうおう)殿御返事』に、
 「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき」(同 六八五n)
と仰せられています。
 血脈の正師に随順し、本門戒壇の大御本尊を受持信行するところに、末法における「受持即観心」の義は成就します。
 本宗僧俗は、この即身成仏の境界を得るために御本尊への信行を決して怠ることなく、さらに折伏弘教に日々精進してまいりましょう。